言語感覚のはなし

はじめて言葉を発してから早20年以上が経つというのに、言葉の扱いには未だしょっちゅう悩まされる。

 

発してから後悔することも多いし、本当にわたしから出た言葉なのか?と我ながら無責任にもびっくりすることだってある。

 

一方で人からもらう言葉には命を救われたような思いをする時もあるし、心臓をひと突きされたような思いになる時もある。

 

人間は言葉を巧みに扱っているような気であるが、本当は言葉の方に翻弄され、転がされているのではないかとすら思う。

 

 

最近、繰り返し同じことについて違う表現で書き続けるということをしている。これが結構しんどいのだ。

 

もう飽きたー!というしんどさもあるが、書いているとあることに気がつく。

 

あ、わたしまたこの言葉使ってる…

 

同じ内容を何度も表現していると、そこに明らかに自分が好んでよく選ぶ言葉の傾向があることがよくわかるのだ。

これを自覚した瞬間、なんだかすっっっっっごく恥ずかしい気持ちになった。単なる飽き以外のしんどさがここにある。

 

ある種、裸を他人に見られたかのような、普段は見えていなかったこと、気に留めていなかったことが露わになったことで、自分が密かに粛々と蓄積してきたメモリのようなものが、ぜ〜んぶ剥き出しになってしまったような感覚なのだ。

 

うわぁ〜、うわぁ〜、なんか、なんでこんなに恥ずかしいんだろう…わたしは考える。

 

そしてふと思い当たる。

 

自分から生まれる言葉は、自分の身体の一部なのだ。

 

結局のところ、人は自分が触れたことのある(知っている)言葉でしか言語表現ができない。

つまり、自分から出る言葉はこれまでの人生でその言葉と出会い、さまざまな環境で実際に使ってみるなどして、そいつの解釈を深め、徐々に自分の一部となっていくという過程をじわりじわりと経ている。

 

莫大な言葉との出会いを繰り返し、中でもとりわけ気に入った言語表現というのは、おそらく自分の引き出しの手前の方に無意識に置いてあって、取り出しやすく、自分にとってすっかり使い心地の良い色や形になっているのだ。

例えるなら、長年愛用し自分の匂いが染みついた枕のような感じである。

自分の匂いが染み付き、ある夜は涙で濡らし、そして毎晩のように涎で濡らしてきた枕。それはもはや、自分の体の一部のようなものだ。

 

想像してみてほしい。長年愛用してきたそんなヨレヨレでシミシミの枕を、突然他人様に晒し上げられたらどんな気持ちだろうか?別に何とも…という人もいるかもしれないが、ちょっぴりむず痒い気持ちにはならないだろうか?

 

わたしが、自分の好む言語表現の傾向が明らかにあるぞ…!と発見しまった時の気持ちは、まさしくこんな感じだったのである。

 

 

他人が使う言葉にも、思わず反応してしまう場面というのがある。

 

例えば、

 

「なるほどですね〜」を連発する営業マン。何だその不可思議な日本語は。

「とはいえ、、、」をやたらと使う人もいたなあ。

何かにつけて文頭に「いかんせん」やら「正味」という言葉を使う大学の先輩もいたっけ。

 

口癖という言い換えもできるが、とにかく、あ、この人この言葉気に入ってるんだな〜というのが伝わってくると、何だかクスリとしてしまう微笑ましさがある。そして本人はきっと無意識なんだろうというのがまたちょっと愛おしい。

 

 

それからもう一つ。最近しみじみと感じることは、やはり言語表現の豊かな人というのは、人間そのものとしての魅力があるように思う。

 

本を読んだり、歌詞を追っている時にふと出会う言葉に感動した時なんかは、表現そのものに胸を打たれると同時に、この言葉を自分の体内から選び出して作品として形にした作者の事を、わたしは思わずにはいられないし、尊敬の念を抱かずにはいられないのである。

 

 

そしてこれはわたし自身の実体験であるが、わたしがライフスタイルの転換を試みた時、他人からさまざまな言葉をもらったことがあった。

それらの言葉を反芻し、どの人がどんな言葉を使っていたかを思い返してみると、無防備なくらいその言葉の発信源となっている人の人間性が剥き出しになっているなと思ったのだ。

 

ある人からは

「夢があっていいねえ〜」

と言われた。実際のところ特にないのだがな。

そしてまたある人は、

「安定を捨てたってことデショ!?」

こういう人もいた。

「なんか人生充実してる感じするわ」

 

受け取り方もさまざまだろうが、同じ話に対して、どんな言葉を使って表現し、こちらに渡し返してくるか。ここまで人間性が色濃く剥き出しになるか…と受け取る側として繊細に、興味深く感じたのである。

 

相手から咄嗟に出てくる言葉をよく聞きとることで、その人がどんな人間なのか、どこに美学を持っているか、どんな本を読んできたのか、どういう言葉遣いをする人達と関わってきたのか…

さまざまな言葉と表現がある中で、どの言葉をチョイスするのか。それは履歴書を読むよりも、その人自身のことがある意味よく分かるなとわたしは気がついた。

 

 

何だか最近はこんな感じで、自分や他人から出る言葉に対して慎重になりすぎているのか、このいわゆる"言語感覚"が自分と一致する人かそうでないかを、他人に対して非常に敏感に感じ取るようになった。

 

こういう表現してくれるんだ、優しいなあ。

え、今ここでそれ言うか…?

なるほど、そういう言い換えがあるのか(笑)

 

頭の中は目の前を飛び交う言葉を掬いあげるので常に忙しい。

 

今後の人付き合いに、相手がどんな言語表現を好むのか、あるいはそもそも言葉に対してあまり気を遣わない人なのか、そしてその言語感覚が自分と近しいか、心地いいかという観点が、自分にとって重要になってきている気がする。それも、歳を重ねるごとに。

 

よく価値観が合う、合わないといったりするが、まさしくその価値観を測る物差しがあるとするならば、どんな言葉を使うか、あるいはあえて使わないか等、言語表現というのは、まさしくその一つと言っていいのではないだろうか。

 

 

ちなみに、わたしが最近もらった言葉で一番ストンと心の中にまっすぐ落ちてきた言葉は、

 

「度胸あるわね」

 

わたしは別に自分のことをドリーマーだとは思わないし、この世の確かさというのは非常に曖昧で、いつも不確実性を孕んだ矛盾さがあり、あまり信憑性がないと思っている。

 

でも"度胸"という言葉を受け取った時、なんだかすごく腑に落ちたのだ。今のわたしが受ける評価を表現する言葉として、非常に適切な感じがしたのだ。

それに、わたしはもともと"度胸"という言葉が結構好きだった。

 

この言葉を送ってくれたのは他でもない、深く敬愛する祖母である。

わたしにとって心地よい言語感覚を持っている人が、血のつながった祖母であることが嬉しく、何だか誇らしい気持ちになった。上手く言えないけど、そんな気持ちだ。

 

 

この文章は全体としてまとまりがなく、自分で読み返してもぽかーんとしてしまうかも…と思っている。言葉って本当に難しい。でも使い方は簡単だから本当に本当に要注意だ。

 

とにかく、わたしは言葉を愛し言葉に愛されているような、そういう豊かさのある人間になりたいのだ。それってどんな?と言われると、正直わからん。具体的なイメージはあるようで、まだない。

 

 

ただ、そうなるためにはもっと語彙を増やすことも大事だろうし、使い慣れた言葉に対しては時々埃をとって磨くなどして、改めて丁寧に扱うことも非常に大切なのではなかろうかと思う。

 

 

少なからず、わたしから生まれ出た言葉で誰かに元気になってもらえるといいなとは思う。

 

誰も傷つけないというのは、悲しいけどきっと無理だろうから。でも傷つけないようにどうすべきか、力の限り努力をすることはできるはずだ。

 

 

やっぱり感覚的なものをこうして言語化するのは本当に難関だなあ。諦めたくないけどさ〜

ちょっぴり限界を感じつつも(そんな自分にがっかりしつつも)、今、何とか言葉にしてみる必要があると思ったのだ。

 

 

おしまい